挫折からのリベンジ!独学で始めた一級建築士合格ストーリー
わたしは令和5年に学科合格(製図試験スルー)、令和6年に製図合格し一級建築士になりました。
この記事は、わたしが一級建築士に2度挫折して、10年後に受かるまでの記録です。
勉強法の解説ではなく、仕事や家族のトラブルの中でどう向き合ったかを正直に書きました。
いま苦しい人が少しでも前を向き、少しでも挑戦の後押しをすることができたら嬉しいです。

少し息抜きをしたい方、モチベーションが上がらない方は
ご興味があれば、読んでみてください!
国家資格「一級建築士」という魔物との出会い

人生ではじめて向き合った(強制的に向き合わされた)のは社会人1年目でした。
入社して、当時は夢と希望?に満ち溢れていたわたしは資格学校の申し込みをしたことがきっかけです。
学生時代は、
「一級建築士ってかっこいい!」
「自己肯定感爆あがり間違いなし!」
なんて、呑気なことを考えていました。
学生時代は勉強が本当に嫌いで、大学受験も正面から向き合うことができませんでした。
でも、入社当初は、モチベーションも高く、絶対に一級建築士になってやる!
と息巻いていたことを覚えています。
「資格をとってもらいたい」という会社の思惑にもハマり、入社早々10年ローン(無利子)で某資格学校に申し込みを決めました。
ここから、人生を狂わすほどのモンスター資格との長い戦いが始まります。
挫折 〜仕事と勉強の両立の難しさ〜

わたしは施工管理職のため、現場に配属されました。
新入社員はそれぞれ別の現場に配属されるのですが、わたしは周りに比べてすぐに激務になりました。
いわゆる突貫現場への配属だったのです。
とても恵まれた環境とは言えない状況でした。
所長は一日中現場に出ない。
次席は急に2週間くらい来なくなって音信不通になる。
通勤時間を含めると6時〜23時が定時という現場でした。
(ちなみに近くの現場に配属された同期は、7時〜19時という環境)
そんな状況が続くと、モチベーションもなくなり1ヶ月足らずで資格学校へ行かなくなります。
気持ちが冷めるのは一瞬でした。
現場が竣工を迎える頃には、ローンだけが残ったまま資格学校への通学は辞めていました。
1度目の挫折です。
時は経ち、もう1度頑張ってみようと社会人6年目に独学で全力を出しました。
当時、会社から過去問を配布されていたためコツコツ問題を解き続けました。
結果、学科試験合計80点(合格基準点-10点だった気がします)
そして、法規は足切りでした。
自分には到底受かるような試験ではない。
2度目の挫折です。
わたしは、一級建築士の道を諦めることにしました。
10年越しのリベンジを決意

リベンジを決意したのは、2人目の子どもが生まれた時です。
寝る前にふと
「このままの人生で悔いは残らない…?」
「子どもたちに誇れる人生だと、胸を張って言える…?」
猛烈な不安に駆られたことを今でも鮮明に思い出します。
当時、38歳でした。
後悔しない人生を送るため、もう一度だけチャレンジしてみよう。
10年ぶりにリベンジすることを決意します。
「家族の時間を犠牲にするのは最低限にする」
というルールのもと、独学で令和4年学科試験日の翌日から勉強を始めます。
学科試験の苦難「家族全員の発熱」

1年間という長い期間、勉強を続けることは簡単なものではありませんでした。
挫折した時は、「激務」と「勉強」の両立が立ちはだかり、
リベンジの時は、「仕事」「勉強」に加えて「家族」の時間も必要です。
自分で決めた勉強する時間は、「通勤時」「仕事終わり」「日曜日の午前中2時間」しかありません。
そのため時間の拘束度が低い『独学』で挑戦することを決め、毎日コツコツ勉強を継続しました。
試験3ヶ月前の4月に受けた初模試が70点台で絶望しましたが、残り3ヶ月で得点は順調に伸び、7月最後の模試では100点超えを達成しました。
このままならいける!
油断せず勉強を続け、走り抜けてやる!
ところが、学科試験1週間前に家族内クラスター発生。
全員が発熱しました(感染症ではなかったのが救いでした)
なんでこのタイミングで?
無意識に、人や環境のせいにしたくなる感情が芽生えてしまいました。
でも、過去の失敗から学んだことで
『この試験は言い訳をした人から脱落する』
という信念で勉強していたので、今できることに全集中しました。
幸運にも試験日3日前に解熱し、試験当日を迎えることができました。
試験時間は、
「時間が余れば何度も何度も問題を繰り返し解き続ける」
「迷った時は悔いの無い方の選択肢を選ぶ」
ということを徹底しました。
そして自己採点の結果。
98点(合格基準点+10点)
受かったと思いました。
人生で忘れることは出来ない、試験当日の20時。
子どもたちとお祭りに行った帰り道です。
缶ビールは格別の味がしました。
その日、わたしは一睡もすることができず、現場へ向かいました。
製図試験の苦難「息子の川崎病」

学科合格後、当初の計画通り製図試験はスルーします。
周り(特に上司)からは否定的なことを言われましたが、自分の意思で決めたことです。
家族にはこれ以上、負担を増やすことはできません。
わたしは10月から試験勉強をゆっくりとしたペースで始め、3月から資格学校の長期講座に通学します。
当時、会社の休みは日曜日しかなかったため、現場にも協力してもらい土曜日は休みをもらって通学しました。
長期講座のクラスはほとんどが過年度生。
初めは食らいついて行こうと思いましたが、次第に過年度生との実力差に心が折れてきます。
結局、だんだん休むことが多くなり講義の1/3は欠席しました。
クラス内の初模試では圧倒的ランクⅣ。
先生からは
「とにかく授業の復習をしなさい」
と言われて細かい話はされませんでした。
「このまま勉強を続けて、合格までたどり着けるのか…?」
不安な気持ちを抱きながら、7月からは日曜日クラスにシフトします。
もともと習いたかった先生のクラスです。
試験まで残り3ヶ月弱。
家族にも協力してもらい、全力を出すことを決意します。
試験の2ヶ月前のことです。
息子が40℃を超える発熱。
3日経っても一向に熱は下がりません。
大きな病院で検査をした結果は川崎病でした。
すぐに入院の準備をして、妻が付き添い入院となりました。
急遽、娘との二人暮らしが始まります。
またしても、なんでこのタイミングで?
気持ちの整理はつきませんが、自分ひとりで生活をまわすための手段を考えます。
仕事は、人生はじめての時短勤務。
朝は娘を保育園に送り、10時〜16時まで働く。
そしてお迎えに行って、明日の準備をして‥‥
料理を作ることが苦手なので、外食も多くなってしまいました。
本当に忙しない毎日でした。
正直、試験を見送ることも考えました。
当時は過年度生と比較しても勝てるイメージが湧いていません。
合格する想像ができませんでした。
「試験は来年にするか…」
次第に気持ちが揺らぎ始めます。
そんな状況の中、当時6歳の娘は寂しがる素振りをあまり見せません。
寂しい想いを口にせず、本当に頑張っていたんだと思います。
寝る前は手をつなぎました。
「娘はこれだけ小さな体で頑張ってる」
「家族みんなで今この瞬間を頑張ってる」
「自分だけ楽な道を選択していいのか…?」
受験を先延ばしするという選択肢はありませんでした。
やるだけやる。
それでダメなら仕方ない。
腹を括りました。
妻の両親に娘を預かってもらい、日曜日は通学を続けました。
宿題のために平日も朝4時から作図しました。
できることはやったと思います。
3週間後、無事に息子が退院し日常が戻ります。
何気ない生活の大切さを実感します。
あの時を振り返ると、娘には余計辛い思いもさせたかもしれない。
そう考えたこともありますが、勉強を継続してよかったと思います。
試験前日に娘が100点シールを貼ってくれました。
「勉強おつかれさま、がんばってね」
そんな意味だと私は勝手に解釈しています。
この1枚に救われたことを生涯忘れることはありません。

試験当日、決戦のとき

試験前日は、妻が子どもたちを連れて妻の実家で過ごしてくれました。
普段浸からない湯船で1時間ほどリラックスし、今までのことを振り返ります。
「できることはやった」
「結果はどうあれ後悔は無い」
万全の態勢で勝負の日を迎えます。
朝は妻にお願いして、試験会場まで車で送ってもらいました。
「今まで本当にありがとうございました、行ってきます!」
感謝を伝え、試験会場へ向かいます。
会場では、とても落ち着いていました。
やるべきことはやりきったからか。
ダメでも死にはしないと割り切っていたからか。
不思議と不安はありませんでした。
養生テープで製図板を固定し終わったタイミングで、指導員から注意されるという一悶着はありましたが、
(もっと早く教えて…)
試験が始まると、
『プランはシンプルかつ簡単に』
高速でエスキスを終わらせるわたしの戦略が活きました。
試験会場の中で1番早くエスキスと記述を完了させ、作図をはじめます。
作図終盤に管理部門の入口に違和感を覚え、1階管理部門を大改造するというアクシデントはありましたが、
「勝者は決して諦めない」
この言葉が最後までわたしの背中を押し続けました。
試験終了ギリギリまで何度もチェックを繰り返し、人生で一番短い6時間半が終わります。
令和6年「大学」は例年と比べると難しい課題だったようです。
合格率は26%。
正直、手応えはゼロでした。
駅までの帰り道に食べたKitKatの味がしなかったことを今でも覚えています。
試験が終わってからのアドバイス

SNSは見ない方が精神的負担を減らせます。
嘘か誠かわからない情報が錯綜するためです。
実際に令和6年の試験後も採点に関係ないところで議論が交わされていました。
そして、完璧なプランを描けた人しか図面をアップしないので、どんどん自信がなくなります。
試験結果発表前に模試で毎回ランクⅠをとるような過年度生に再現図を見てもらったことがあります。
「正直、落ちたと思った」
と言われました。
結果が気になる気持ちも十二分に理解できます。ただ、想像以上に精神的な負担がかかっているため、難しいとは思いますが、結果を気にしすぎることがないようにしてほしいです。
ちなみに、令和7年に受験した方も、今年も同じようなことが議論されてたよ。
と言っていました。
結果、議論されていた内容は採点には全く反映されなかったそうです。
合格発表の日

合格通知は会社の上司からの電話でした。
「結果見てないの?じゃあ自分で確認してみて」
とのことでした。
私自身、ネットで結果を見るのは恐ろしすぎたので助かりました。
その日は会社の関係者からお祝いの電話がかかってきました。
普段仕事でこれだけ褒められることはありません。
本当に頑張ってきてよかった。
と安堵しすぎて、仕事に手がつかなかったことを覚えています。
一方で、令和6年は合格率が低い年でした。
SNSで一緒に頑張っていた人の中にも不合格という結果だった方がたくさんいます。
中には角番の人もいました。
嬉しかったけど、本心で喜べなかったことを今でも覚えています。
共に頑張った人たちと、感動を分かち合いたかった。
笑ってお互いを褒め称えたかった。
わたしは受験を運よく終えることができましたが、この試験は頑張れば合格できるということではなく、本当に残酷な試験だと感じました。
人生はいつでもリスタートできる

わたしが一級建築士になったのは40歳です。
世間一般的には、決して早いタイミングではありません。
一級建築士になったことが、長年勤めた会社を退職する決断の一助になったことは間違いありません。
いつでも人生は変えられます。
そして、一級建築士という資格は人生を変える力があります。
一級建築士を目指して、気づけば20年近く経っていました。
いま挫折している人も、遠回りしている人も過去のわたしのように諦めないでほしい。
資格に限った話ではありませんが、
「人生で悔いはありませんか?」
あの時、やっておけば…
という、やらなかった後悔は死ぬ時まで忘れないようです。
一度きりの人生、後悔の無いように。
わたしも生涯学び続けます。
この記事を読んでくれたあなたの挑戦も微力ながら応援したいと思っています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

